2025年の今年は東急世田谷線が誕生して記念すべき100周年の年です!
世田谷区内の住宅街を走る路面電車として長年住民に愛されてきた『世田谷線』。
世田谷区は南北を結ぶ鉄道路線が少なく、南北移動はバスを使うことが多いですよね。
そのため『田園都市線』、『小田急線』、『京王線』を縦に結ぶ“連絡路線”としての世田谷線は、なかなか貴重な存在です。
自分も日々利用している路線ですが100年もの長い歴史があったとは!
また世田谷線は、都心を走る電車にも関わらず2両編成だったり、環七の道路上を横断する路面電車であったり、独特な雰囲気を持つ路線ですよね。
この機会に色々気になったので、世田谷線について改めて調べてみました!
世田谷線の歴史
東急世田谷線は、都心に残る貴重な路面電車として、今も多くの人々に親しまれています。その歴史は、大正時代にまで遡ります。
明治の終わりから大正にかけて、東京近郊では私鉄の建設ラッシュが起きていました。都市への人口集中と、それに伴う新たな住宅地の開発が活発であったためです。
世田谷地域も例外ではなく、
1907年に開通した玉川電気鉄道の渋谷〜玉川間(現在の田園都市線)を皮切りに、
1913年に京王電気軌道の笹塚〜調布間(現在の京王線)が、
1924年に玉川電気鉄道の玉川〜砧間が開通します。
そしてこれらの路線の開通以後、三軒茶屋より西の地域住民によって三軒茶屋~下高井戸間の延伸を熱望する声が高まります。ただ今の状況からは信じられませんが、昔の世田谷区は「農村」が広がっており、世田谷の中心地に鉄道を通すことはそう簡単な話ではなかったようです。
そこで当時の世田ヶ谷村の有志、特に名士であった大場家当主や村長が中心となり、160人もの地主へ協力を呼びかけました。そして軌道敷地の無償寄付に同意してもらうことに成功します。
このエピソードは地域の住民が自らの手で利便性の高い交通網を整備しようとした、稀有な成功事例といえます。地域住民も、無償寄付をした地主自身も、鉄道の開通を熱望していたからこそ実現することができたんですね!
※大正時代の人々のイメージ
© 2013 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli
こうして、渋谷〜玉川間に遅れること18年、ようやく1925年に三軒茶屋〜下高井戸間を繋ぐ下高井戸線、現在の世田谷線が開通したのです!!
玉川線の廃止と世田谷線の独立
高度経済成長期に入り、首都高速道路の建設が決定すると、玉川線本線(渋谷〜二子玉川園)は1969年に廃止されることになります。
いっぽう三軒茶屋~下高井戸間を走る下高井戸線(現世田谷線)は、道路上に敷設された軌道を走る「軌道線」として存続することが決定され、独立した路線として現在の「東急世田谷線」となりました。
下高井戸線(現世田谷線)が現在も残っているのは、玉川線本線が道路上の併用軌道で交通渋滞の原因となり廃止されたのに対し、世田谷線は大半が道路から独立した専用軌道だったためと言われています。
この出来事は、世田谷線が、単なる都市間の連絡手段ではなく、地域住民の生活に密着した存在として認められた瞬間でした。
自分が世田谷線の存在を初めて知ることになったきっかけは約10年前、三軒茶屋に引っ越してきたときです。
はじめは「東京のこんな都会に2両編成の電車が走っててかわいい!」と田舎出身の自分は思ってましたが、明治から現在に至るまで経済が発展し建築物や交通量が多くなった世田谷区では、かえって2両の小型サイズが連絡路線として重宝されているんだなと納得しました。
道路上を横断する路面電車スタイルも、誕生当時の専用軌道の名残がそのまま続いているということなんですね!
現代の世田谷線
独立後、一時は他の東急線から切り離された孤立路線でしたが、1996年には三軒茶屋駅が現在のキャロットタワー内に移設され、利便性が向上しました。
その後も、古き良き雰囲気を残しながらも、時代に合わせて進化を続けている世田谷線。
2019年には、鉄道事業では初めて、使用する電力を100%再生可能エネルギーに切り替え、環境に配慮した取り組みも進められています。
100周年記念イベント開催中!
東急電鉄では今秋、特別デザインの「世田谷線散策きっぷ」の発売や沿線を巡る100か所スタンプラリーの実施など、盛りだくさんなイベントを開催しているそうです。
興味のある方はぜひ参加してみてくださいね!
今回は世田谷線の歴史をご紹介しました。途中からブラタモリみたいになりました。
普段何気なく利用している世田谷線も先人の想いが受け継がれていることを知り、世田谷線をより好きになりました。
IEYAでは世田谷線沿線のお部屋も多数ご紹介していますが、街の雰囲気が本当に良くて、私たちも大好きなエリアです。
もっと世田谷線沿線の魅力を伝えられるように日々精進せねばと思います!